11019. 適菜砲4

議論の勝敗だけにこだわる「知識人ごっこ」の末路【中野剛志×適菜収】

中野:そうでしょうね。昨年われわれは「新型コロナはどうも相当やばそうだ」と直観したけれど、われわれは疫学者ではないから、思ったよりやばいと思った理由を完璧には説明できないんですよ。だけれども、尾身茂先生や西浦博先生の訴えを聞いたり、海外の状況を総合的に判断したりして「これは、大変なことになりそうだから、気を付けた方がいい」と感じたわけです。

 私も大衆迎合は嫌いだし、みんなが同じような台詞ばかり言っているときは、それと違うことを言いたくなることはよくありますよ。でも、今回の新型コロナは違う。これは、少なくとも自分は経験したことがないし、こいつはまずいという直観が働いたのです。その段階では、人には明瞭には説明できませんよ。だから説得は難しいわけですし、それについては、多分、感染症のプロたちだって難しかったと思います。というか、感染症のプロたちも、初めの頃は、「これは、新しい未知の事態だ。気をつけろ」という直観で動いていたという面はあるのでしょう。

適菜:そうですね。だから常識がある人は政府の方針でおかしなところがあればそこは批判していましたが、感染症そのものについては黙っていました。素人が専門分野に口出しできるわけがないですからね。そして、専門家も新しい事態に直面して、説明するための言葉を必死に探していたわけです。

中野:その通りです。こうした中、京都大学大学院教授の藤井聡氏はなんて言ったのか。昨年の6月に「もし僕が間違っていたら人前には出ません。筆を折ります」と言ったわけですよ。それで筆を折るのが嫌なもんだから、今は事実や論理をバキバキ折っているところです(笑)。

 昨年の2月から4月頃、私は、自分の周囲で、新型コロナを軽視する知り合いに、「これは気を付けた方がいい」となんとか説得しようとしたことがありますが、失敗しました。説得どころか、小馬鹿にされた。でも、確かに、当時はまだ直観の段階でしたから、そんな私の直観を人と共有するのは無理だったんです。とりわけ、既存の理論にしがみついている人、間違った直観にとりつかれた人を説得するのは不可能ですね。それは、私の言葉足らずという問題もあったでしょうけれども。

 でも、感染症や公衆衛生の専門家が「これはヤバいから、気をつけろ!」って言っているんだから、素人は、まずは専門家の言うことに従っておこうというのは、直観以前の常識的な話でしょう。それを、素人が突然「専門家」を名乗って、いきなり本物の専門家を名指しで批判しはじめ、挙句の果てに「僕が間違っていたら筆を折る」って、これ、どう理解したらいいんですかね。

中野:新型コロナって恐ろしいもので、新型コロナを軽視する「知識人」を嘲笑うかのように、次々と変異していますね。若者でも重症化するようになったり、感染力が強くなったり。新型コロナは、その発生が未知の事態だというだけでなく、自分でさらなる未知の事態を次々と作り出しています。感染症や公衆衛生の専門家も、変異や状況の変化に合わせて、臨機応変に対応していかなくてはならない。「間違っていたら筆を折る」なんて言っていたら、筆が何本あっても足りない。これこそ、まさに、本当の危機というものです。だから、本物の感染症のプロで、「間違っていたら筆を折る」なんて大見え切った人は一人もいなかったわけです。もっとも、ワクチンの開発が奇跡的に早く成功したので、光明が見えてきましたが、もしワクチン開発が遅れていたら、もっと深刻な危機になっていたのでしょうね。

 ところが、藤井氏は、2020年12月、「WeRise」という団体のイベントに参加し、講演で「コロナがあったら、飲んでもいい」などと発言しています。コロナって、ビールのコロナじゃないですよ。挙句の果てには、ギターをかき鳴らし、飛沫飛ばして「Oh,Yeah,Oh,Yeah」などと叫んでいるのです。ツイッターで流れて来たその動画を見た時は、言葉を失いました。

 これは、さすがに限度を超えているでしょう。藤井氏が「Oh, Yeah, Oh, Yeah」と歌っていた頃、すでに大阪の医療機関は逼迫していました。そして、その後、大阪は、医療崩壊状態になったんですよ!藤井氏とつるんでいる連中は、この「Oh,Yeah, Oh, Yeah」の動画を見ても平気なんですか?

適菜:「WeRise」って、武田邦彦や内海聡といった陰謀論者が集まっているトンデモ集団でしょう。ウェブサイトでは、《新型コロナウイルス感染症はメディアが作り出した怪物》などと謳っていた。藤井聡は新型コロナという危機に対峙できないだけではなく、自分自身の危機にも対峙できなかった。都合の悪い現実を直視せずに、自己欺瞞を続けてきたわけですから

■オウム真理教が出てきたときの知識人の反応

中野:新型コロナを巡る知識人の言説で特にあきれかえったのが、新型コロナ対策で外出を自粛するのを「生命至上主義だ」と批判する連中が出て来たことです。

 生命至上主義を批判するというのは、「自分の命よりも大切な価値があると構えるべし。自分の命が何よりも大事だなどとやっているようでは、みっともない生き方しかできない」というような議論ですね。西部邁先生は、戦後日本人の精神構造を批判して、よくそういう議論をしていました。

 この議論自体は、自分自身の生き方の規律としては、正しいとは思いますよ。でも、この議論は、感染症対策に当てはめるようなものじゃないでしょう。

 当たり前の話ですが、感染症対策は、自分の命を守るというだけではなく、他人に感染させて、他人の命を奪わないようにするためのものです。「俺は、自分の命なんか惜しくはねえぞ」ってイキがるのは勝手ですが、「俺は、他人の命なんか惜しくはねえぞ」ってイキがっている奴がいたら、そりゃ、取り締まらなきゃ駄目でしょう。

 生命至上主義批判をしている知識人は、もし自分のせいで他人が感染して死んだら、嘆き悲しんでいる遺族に「命より大切なものがあるだろ」って諭すんですか? 自分の御大層な死生観を、人に押し付けるのはやめてくれって話ですよ。

 ところが、藤井氏は、小林よしのり氏との対談の中で、こんなことを言っている。

《「もう寿命も近いから、コロナだろうが何だろうが、死ぬのは構わない。それなら残り少ない日々を、外に出て楽しく過ごしたい」という気持ちだって、何人たりとも妨げることはできないはずです。そこが通じない現状には、全体主義的な生命至上主義の怖さを感じてしまいます

適菜:つっこみどころが多すぎますが、そもそも「気持ち」を妨げることなど不可能だし、誰もやろうとしていない。「そこが通じない現状」ってなんなんですかね。

中野:そうです。「何人たりとも」とか大げさな表現をしていますが、実にナンセンスな発言です。そもそも、外出したいという「気持ち」を妨げようなどとは、誰もしていないし、できない。妨げようとしているのは、外出という「行動」でしょう。

 もっとも、藤井氏は、緊急事態宣言など、外出という「行動」を妨げることを指して、全体主義的な生命至上主義だと言いたかったのでしょう。それなら、まあ、批判としては一応成り立つので、そう読み換えておきましょう。

 でも、そうだとすると、今度は、「何人たりとも妨げることはできない」って、何を根拠に、そんなことを言っているんでしょうか、って話になりますね。

 そもそも、一般論として、自由主義国家であっても、公共の福祉のために、私権を制限することはあり得るというのは、憲法の教科書レベルの話です。ましてや、人にうつして感染を拡大させてはいけないという公衆衛生上の立派な理由があるんだから、政府が規制によって外出を妨げることはできるでしょう。いや、むしろパンデミックから国民を守るために公衆衛生上の規制措置を講じることは、政府の義務ですらある。その公衆衛生上必要な外出制限措置に「全体主義的な生命至上主義の怖さを感じてしまう」というのは、極端な自己中心主義者だけです。しかも、日本の緊急事態宣言は、欧米で実施されたロックダウンほど厳しい措置ではなかったのですよ。

 結局、生命至上主義批判って、気を付けないと、単なる知識人の自己中の裏返しだったりするわけです。(くどいですが)「Oh, Yeah, Oh, Yeah」したいという自分勝手を、生命至上主義批判で正当化しているだけ。生命至上主義を批判して「俺は、死んでみせる」と大見えを切るのは結構ですが、人様に迷惑をかけたり、巻き添えにしたりしないで、一人で勝手に死んでくれよっていう話ですよ。

適菜:保守を自称しながら、都合よく自由主義者になってしまう。いや、こういう言い方は自由主義者に失礼ですね。校則がおかしいと言って、イキがってみせる中学生レベル。

中野:そういう言い方も、中学生に失礼ですよ(笑)。それはともかく、この藤井氏の発言は、彼自身が感染対策として「高齢者は、徹底的に隔離すべし」と言っていた話とも矛盾する。外に出て楽しく過ごすのを何人たりとも妨げることができないなら、どうやって、高齢者を徹底的に隔離するつもりなんですか。

 要するに、物事をまじめに考えずに、単に生命至上主義批判というテンプレートを使えば知識人ぶることができると思って、それを当てはめてはいけない事象について当てはめて論じてしまったということです。実に、タチが悪い。

 ところで、新型コロナを巡ってデタラメを言う知識人には、オウム真理教が出たときの知識人の振る舞いを思い出させるものがありますね。

 あれは、80年代から90年代にかけて、バブルでみんながふざけまくっていたときです。その後も構造改革とか言ってふざけまくって日本をダメにしてしまったわけですが、当時は言論も弛緩していた。商業主義でウケればなんでもいいとなっていたんでしょうね。ちょっと気の利いたことを書いては、新しい知識だ、新しい理論だと言って調子に乗っていた。あの頃の知識人は、何を書いてもカネが稼げた時代だったと聞いたことがあります。当時は、「朝まで生テレビ」なんていう番組が全盛期だったですね。

 当時の知識人というのは、そういうふざけた連中ですから、オウム真理教に対しても、高をくくっていた。この平和な日本でテロ行為を宗教集団がやるなんて夢にも思わずに、麻原彰晃を面白がっていたんです。ポストモダンの理論なのか何なのか知りませんが、もっともらしく解釈してみせて面白がっていたんですよ。

適菜:中沢新一、島田裕巳、荒俣宏、吉本隆明……。テレビ朝日の『ビートたけしのTVタックル』に麻原彰晃を呼んだり。国家による宗教弾圧だとか言っていた「知識人」もいましたね。それをまたオウムが教団宣伝の材料にしていた。

中野:自分がテロに加担するとは夢にも思っていなかったから、そういうふざけたことが言えたんでしょうね。取り返しがつかなくなる可能性に気づいていたり、責任感があったりしたら、そんな危ないものには近づかないはずです。だから、1995年に地下鉄サリン事件が勃発すると、麻原を面白がっていた知識人連中は総崩れになった。

 新型コロナも同じです。パンデミックを経験したことがないもんだから、最初は、まさか新型コロナで大勢人が死ぬとは思わなかった。甘ったれていた、世の中を舐めていたのです。それで、なんとなく、人とは違う、気の利いたことを言いたい気分になって、あるいは、世間の風潮に反発したくなって、いつもの生命至上主義批判だの、全体主義批判だのをやってみた。「単に『国民は自粛しろ。政府は補償しろ』なんていうだけの平凡な議論では、何も面白くない」とでも思っていたのでしょう。

 その知識人連中は、一年たった今、どんな議論をしているのでしょうか。当初の主張を意固地になって言い張っているか、さもなくば「まあ、新型コロナ対策なんか、初めから、たいして関心がなかったんだよな」と斜に構えるか、そんなところでしょうか。そんな態度も、どうせ自分が新型コロナに感染して苦しい思いをしたら、コロッと変わると思うけれど。

適菜:だから平和ボケなのは、彼らなんですよ。山梨県の上九一色村にオウム真理教が入ってきたときに、地元の住民は反対したんです。そしたら「オウムにも自由がある」みたいなことを言い出す「知識人」が出てきた。「オウム信者の人権はどうなってるんだ?」とか。吉本隆明が「宗教の倫理と世俗の倫理は違う」とか当たり前のことを言い出して、吉本の信者もオウムの信者もありがたがってその御託宣を聞いているわけです。常識をからかうというか、相対化するというか、軽視する浮ついた時代だったんですね。その後、オウム事件の検証みたいなのもありましたが、今回の新型コロナ騒動を見る限り、なにも反省していなかったんだなと感じます。オウムと同じように被害妄想と陰謀論に辿り着き、狭いコミュニティーの中でカルト化していった集団もありました。頭はそれなりにいいが孤独な人がカルトにはまりやすい。カルトの内部では世の中を整合的に説明してくれるし、自分と似たような考えを持つ人が周辺に集まってきます。そこではじめて自分を認めてくれる人たちに出会い、居場所を見つけたような気分になる。居心地がいいから、外部の世界と乖離していても気づかない。

 一方、途中で気づいたまともな人たちは、そのコミュニティーから離れていきます。こうなると、教祖の周辺はイエスマンばかりになるので、おだてられてますます暴走していく。オウム真理教の信者たちは目の前にある現実を無視し、何が起こっても、「尊師は悪くない」「尊師はむしろ被害者だ」の一点張りでした。そして批判されればされるほど、外部の声を聞かず頑なになっていく。自分たちは正しいことを言っているのに、それを理解できないバカがいると思い込むわけです。

中野:それで思い出しましたが、前回の対談で、小林秀雄の「政治」と「思想」の区分に触れつつ、学問上の師弟関係と、思想運動や徒党とは違うという話をしましたね。学問の師は、徒党の指導者とは違うのです。

 学問では、弟子が師匠を批判してもよい。いや、批判できるなら、むしろした方がよい。それによって思想は磨かれるし、正当な批判であれば、両者の信頼関係は崩れない。小林秀雄も正宗白鳥を激しく批判しましたが、小林は正宗に敬意を表していました。

 ところが、徒党では、指導者を批判するのはタブーです。ですから、思想運動の徒党では、指導者とメンバーの関係は、師匠と弟子ではなく、それこそ、尊師と信者の関係のようにになってしまうのです。

 学問における師弟関係と徒党との違いは、指導者に対する批判が許されるか否かの違いですね。指導者に対する批判もできないような知識人のグループは、単なる徒党に過ぎません。その徒党の極端な形態が、カルト教団でしょう。

 徒党では、もし、メンバーが指導者を批判するようなことがあると、指導者や他のメンバーたちがよってたかって批判者を抑圧したり、排除したりして、徒党の秩序を守ろうとします。知識人の徒党の場合、カルト教団とは違って、物理的な暴力で抑圧するわけではありませんが、吊し上げとか、あるいは陰口やゴシップとか、もっと嫌らしい手口を使うんですよ。実に、みっともない話ですが、まあ、指導者やら徒党やらに依存するのは、福沢諭吉の言う「私立」ができないような情けない知識人ですから、当然、そういうことになるわけですね。

 話を戻すと、オウム真理教事件の教訓が生かされてないから、「知識人」の悪ふざけがまだ続いているのではないでしょうか。「朝まで生テレビ」もそうですし、最近ではネット番組の荒れた言論もそうですが、「どっちが勝った」「言論で対決する」「論破した」といったレベルのことをやっている。大声を張り上げて自説を押し通すか、屁理屈をこね続けて、相手がうんざりして黙ったら、「勝ち」という下劣なゲームです。そういう「勝ち負け」のゲームになった瞬間に、そんな議論はもうダメですね。

適菜:新型コロナの変異の問題など、状況の変化はそっちのけで、「俺はカッコいい」「自分は議論に勝った」ということにするためだけに全精力を傾けているような人もいますよね。自分を騙し続けることにより、信者と共に自閉していく。オウム事件当時、「なぜ有名大学を出たインテリがあんなばかばかしい宗教にハマってしまったのか」とメディアが騒いでいましたが、今回の新型コロナ騒動ではっきりわかったと思います。

中野:やけにリアリティがありますね(笑)。さて、ノンフィクションの話に戻りますが、この対談を読んでいる読者の中には、我々が藤井氏ばかり批判しているのを不審に思う方もおられるかもしれません。しかし、藤井氏の問題の中には、知識人・言論人の問題、さらには現代日本の問題が凝縮されているように、私には思われるのですよ。コロナ禍という危機が炙り出した現代日本の知識人の問題。これを論じる上で、彼ほどふさわしい人物はいないでしょう。その意味では、藤井聡教授こそ、現代日本を代表する知識人の一人と言っていい(笑)。

適菜:その通りです。ニーチェは『この人を見よ』でこう言っています。

《ただ私は個人を強力な拡大鏡として利用するだけだ。危機状況というものは広くいきわたっていても、こっそりしのび歩くのでなかなかつかまらない。ところが個人という拡大鏡を使うとこれがよく見えてくるのである。私がダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのもこの意味においてであった》

《またこれと同じ意味において、私はヴァーグナーを攻撃した。もっと正確に言うと、すれっからしの人を豊かな人と取り違え、もうろくした老いぼれを偉人と取り違えているドイツ「文化」の虚偽、その本能‐雑種性を私は攻撃した》

 要するに、時代や危機状況といった曖昧なものは、特定の人物を論じることにより、具体的に見えてくる。単なる悪口にはなんの意味もありませんが、社会の病を把握するためには、俗物について論じるのは大切なことなのです。

(以上、抜粋引用)

「特定の人物を論じることにより、具体的に見えてくる。単なる悪口にはなんの意味もありませんが、社会の病を把握するためには、俗物について論じるのは大切なこと」

悪口しか書かないブログの存在意義を「言語化」していただきました。

11000. 挨拶(2021/5/31)

「この人を見よ」に宮沢さんの存在が抹消されているのは不思議。

彼のほうが専門家を名乗っていたし、藤井教授はいつも「僕は素人ですけど、ウイルス専門家の宮沢先生が〜」って名前を使ってました。

専門家には文系の人では歯が立たないのかもしれません。だから、私がいるのです。