6524. 言論の自由?なにそれ美味しいの?

言論の自由なんてものは、あってもなくても大差ないと無関心だった庶民が気づいたのは大きい。 

おそらく中国大半の国民にとって、特に経済成長の中で多少たりともの実利を得た富裕層や中産階級にとって、「言論の自由」は結局あってもなくてもどうでも良いような「高嶺の花」となっていた。大多数の一般国民からすれば、言論の自由を求める言説や政治行為は、要するに一部の物好きな人々のものであって、自分たちの生活とは何の関係もない。経済繁栄の中で、大半の国民は別に「言論の自由」はなくても、自分たちが自由に経済活動を行って富と幸福を手に入れることができればそれで十分と考えていた。

これまでは一部の知識人が唱える「言論の自由」は確かに、現実から遊離した机上の空論として国民の共感をなかなか得ることができなかった。しかし今回のことで様子は一変した。

というのも、まさに政府による情報隠ぺいと言論統制によって、新型ウイルスは武漢市民や一般国民がまったく知らないところで拡散・蔓延したからだ。そして武漢市民や一般国民がやっと実態を知らされた時には全てが遅すぎた。新型ウイルスはすでに武漢と全国で猛威を振るい、多くの人々が苦しみ、命までを失った。そして今、全国の多くの地方で人々が移動の自由を失い、普通の経済活動も市民生活もできなくなっているのである。

李医師が「イエス・キリスト」になる日

多少たりとも思考力のある中国国民はやっと大事なことに気がついたはずだ。「言論の自由」は決して、自分たちの生活とは無関係でないこと。言論の自由が圧殺される状況の中では、とんでもない災難が知らないうちに自分たちの上に降り注いでくることもありうる、ということである。つまり「言論の自由」を自分たちの生活とは関係ないものとして無視した結果、自分たちの生活が脅かされるだけでなく、自分たちの命さえ危険にさらされることになったのだ。

おそらくこの「気づき」こそ、李医師の死に対してネットで嵐が吹き荒れる背景にあるものであり、言論の自由を求める運動が大変な勢いで始まった最大の理由であろう。多くの中国国民は確実に、「言論の自由」は自分自身にとっての切実な問題であることを悟り始めている。

一部の教授たちが李医師死去の日を「国家言論自由の日」として制定するよう提言していることからもわかるように、死去からわずか数日間で彼は図らずしも中国における言論の自由のシンボルとなり、言論の自由を求める政治運動の旗印になった。「十字架のイエス・キリスト」を得てからこそキリスト教が大きな勢いを得たと同じように、死去した英雄の李医師を旗印にすることによって、言論の自由を求める中国の国民運動は今後、持続し広がっていくだろう。政府の情報隠ぺいと統制が未曾有の大惨禍をもたらしたことへの国民的反省を基に、言論の自由を求める運動は今後、一種の政治運動として中国の中で定着して社会と政治構造を大きく変えていく力になりうる。

(以上、https://www.newsweekjapan.jp/sekihei/2020/02/post-7_3.phpより引用)

もう1つ。言論の自由は「陰謀論」と拮抗するにも必要だ。

SARSとHIVのキメラとしたインドの論文は「取り下げ」になってると書いてあれば、もっと良かった。