6303*. 頑張れない人

三宅さんの辞世の句となったツイッターは以下のものだと思う。

頑張れない人=三宅さんだと読んだ場合。

彼女は別の選択肢もあった。

1、政治資金団体を閉じ、政界からは引退する。これで「参議院全国区を戦えるだけのボランティアスタッフと資金」を稼ぐ必要がなくなる。相当にストレスは減るだろう。

2、ルポライター稼業は腰痛治療に専念するため、しばらく休業を宣言する。これで、裁判所まで行く必要がなくなる。治療が理由ならば、無理なくフェードアウトが出来る。

3、ツイッターを休む。これでツイッター界隈での誹謗中傷を自らシャットダウンし目と心を休めることが出来る。「休む」のならば、適当に復活しては休むの繰り返しも可能。

しかし、それをさせなかった人たちがいる。彼女に政治家として期待した支援者と、ツイッターで戦う陣営を組んでた人たち。旗頭である彼女を失うわけにはいかなかったのは、支援者たちだったと思う。

支援者の中で、誰も、休んでいいんだよ、あとは任せな、しばらく「座」は守っててあげるからと言える人が居なかった。誰も彼も、自分の利益のために彼女を利用し、誰一人として彼女本人のためを思って「引くときは引け」と言える人が居なかったので、「頑張りきれません」と自ら幕を降ろすことになったのではないだろうか?

政治家としての彼女はオワコンだった。野党に追い風のない時代を生き抜くほどに、彼女は落選後に修行を積んでない。政治家として生きたければ、都議選から始めてもよかったのだ。政治家ではない「おばさんコメンテイター」として生きる道を、残酷かもしれないがコンサルタントなら冷静な目で提案できただろう。

最後まで政治家でありたかったのは、彼女自身なのかもしれない。

しかし、政治の世界において「頑張れない人」に議席は来ない。国民は貴重な一票を、たった一票しかない一票を、そんな人には投じない。死に票になるからだ。甘えが許されない政治の世界に残るために、彼女は「死」という賭けに出た。小沢邸の新年会に出れない理由が「死」ならば、誰も何も言わない。

「元」衆議院議員として新聞にもテレビにも報道された。アイドルや歌手が引退するように「普通のおばさん」となるを拒んだのは彼女の自由だが、頑張れない人を選挙民が政治家として選ぶ世の中は、私はあってはならないと思う。それは「頑張っている人」への冒涜である。