5284. 余命擁護A論法

三宅一座と余命一派は、同じもののA面と B面のようなものだ。

どちらかを正しく理解できれば、もう1つの方も簡単に理解できる。

最初に誰かのファンとなったとする、それは、自分が抱えてる何かを投影するのだ。私に脱会者がくれたコメントの中には、死んだ祖父の姿を余命に重ねて読んでいたって人がいた。読者コメントの中には、少なからぬ数の「集団ストーカー被害」を訴える人がいる。膨大な量の「官邸メール」の中に、自分の望みを書き込み、余命=安倍政権のフィクサーと信じ、政権に陳情しようとした人たち。

安倍さんとは縁もゆかりもない、政権とはなんの関係もない、ただのタクシー運転手だと知れても、それでも、「人を見る目のなかった自分」を否定できず、都合の悪いところを見ずに、なんらかの「利点」を探して、それが1つでもあれば、余命のやること全てを肯定するように思考する。

これは、ある種の自己防衛なのだ。

ロクデモナイ男に騙されても、離れられないダメンズしかり。

そこには学歴の良し悪しは関係ない。文系も理系も、右も左も、法的知識の有無すら関係ない。己の過ちと真摯に向き合う精神力があるかないかの違いだけだ。

二人のS先生の胆力の違いを、余命ヲチャは見てます。

拡散装置として、是々非々で、そこだけ利用するか。

何があっても丸ごと肯定してしまうか。

人として信じたのならば、トコトン信じる。それもいいけど、その路線で行くのに人を見る目のない男って、哀れなものよ。