5194. 煽り男とガラケー女

余命読者の怒りに似ている。

以下、プレジデントオンライン「なぜ日本中が煽り運転男に怒っているのか」から引用

だれもが無遠慮に罵倒し、石を投げてもよい存在が世間にはいつでも求められている。なぜなら「ただしくない」存在を規定し、これを糾弾・非難することによって、自分の「ただしさ」が保証されるからだ。自分のただしさを確認してくれる証人は多ければ多いほどよい。世間のだれもが糾弾する「悪」を、みんなで一斉に制裁することによって、その場に参加する全員が「自分はちゃんとして生きている側なのだ」という肯定や安心を手にすることができる。
 無関係な人間を犯人とするデマを大勢の人が信じてしまうほど(デマで犯人とされた無実の本人がそれを否定している現在にいたってもなお)、社会の「正義」が暴走してしまうのは、まさに私たちにとって「ただしい側でいられる」ことへの欲求が高まっていることを示唆する。
 「悪」とされた人間をより苛烈に糾弾すればするほど、自分がもし「悪」とされてしまったときのことを想像すると恐怖が強まる。自分がいつでも「ただしい」側で立っているかどうかが不安になってしまう。まさしく皮肉としか言いようがないが、「悪」をみんなで叩き潰し世直しをすれば一時は安心できるが、しかしかえって自分が「ただしい側」にいるのかどうか不安が強まり、その不安を打ち消すためにますます「悪」とされる存在を追い求めるようになる。

普段なら冷静にふるまえているはずの人でも、本件容疑者の男には同様の態度を示せているとはかぎらない。それは上述したような「正義の暴走」「ただしい側にいたいという不安」ですべてが説明できるわけではない。

 各メディアで大きく伝えられたことから世間的な「怒り」が喚起されていることに加え、自動車を利用して日常生活あるいは仕事をする者であれば、だれもが一度は被害を経験するほど「あおり運転」がきわめて身近な存在であるという点も無視できないだろう。「自分の身に降りかかりうる危険を、この機会にしっかりと排除するべきだ」という治安意識によるものも少なくはないだろう。

 内閣府「令和元年版交通安全白書」によれば、高速道におけるあおり運転の摘発件数は2017年が6139件だったものが、2018年には1万1793件にほとんど倍増している。言うまでもないが、摘発件数の急上昇はあおり運転がわずか1年間で急増したためではなく、これまで身近な存在だった危険行為の認知度が上昇したことが要因だ。

 「あおり運転」は、これまでだれもが日常で感じうる危険であったがゆえに、これに対する怒りは多くの人に共有されていた。人びとが音もなくしかし着実にため込んでいた「静かな怒り」を一気に噴出させるきっかけとして、今回の犯人はうってつけの人物だった。
 というのも、「あおり運転をするような奴は、自分勝手で、乱暴で、他人の生命を危険にさらすことを何とも思っていない悪人に違いない」という人びとのイメージにまさしく一致する、画に描いたような男が映像付きで現れたからだ。
 「私たちは、この男のような狂暴で身勝手な人間に、毎日脅かされているのだ。そんなことはあってはならない」と、多くの人がわが身に起こったことのように共感した。「正義を求める不安な人びと」と「危険にさらされる怒れる人びと」――思惑の異なる両者ではあるが、偶然にもひとつの出来事によってその声が合わさり、増幅されたことで、事件および容疑者へのバッシングをより激烈なものにしている。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190820-00029698-president-soci

「正義は暴走する」これは右にも左にも言えることだ。

そして、余命読者たちが思っている危機感が、「日本は在日に、反日に蚕食されている」というもの。

最後、身近にある絵に書いたような悪人が、ガラケー女が「生野警察署」への移送を強く希望してたなんて聞くと。戦後に暴れていた「三国人」の暴行を親・祖父母世代から聞いたことのある中年以降の世代にとっての在日のイメージに重なる。

ヘイトだ差別だ、と言って頭ごなしに一方的に押さえつけようとしても、簡単におさまるものじゃない。「静かな怒り」は溜め込まれ、いずれもっと大きなエネルギーで爆発する日を待つだけだ。

だからと言って、噂だけで別人を誤爆したり、

余命信者がやらかした「弁護士個人への懲戒請求」や「外患誘致罪告発」といった法的に根拠のない「業務妨害」が許されるものでもない。