2595. 花菱さんの思い

私も同じです。結局、私も出来てはいませんが、それでも「日本人はどうあるべきか」を議論する場として機能したいと思っています。

当初、2016年3月3日の「余命に違和感を抱けば即、反日が確定する」発言の前に余命ブログに集っていた山中英雄氏を筆頭とした論客たちは、余命ブログがそう言う言論プラットフォームに進化することを期待していたのだと思います。

その議論の中に、もっとも有効で、かつ違法性のない、一般人にも拡大可能なストラテジーは何か、どの言論保守との連携がもっとも効果的か、と戦略も練ることも出来ると夢見た人も当時はいたのではないでしょうか?

「相変わらずの遅筆ですが、次からは、未来への願いを書いていきたいと思います。」とある。

もし花菱時事日記が、その役割を担うと言われるのならば、私は嬉しい。

反余命としての「垢」がつきすぎた私のブログよりも、あなたの方が汚れてないからだ。

その役割はあなたにこそ、ふさわしいと思う。

 

以下、花菱時事日記より引用

https://hanabishius.tumblr.com/

過去仮定法でのお話をひとつ。

かつての私のブログ「春不遠」は、「日本再生」という大いなる目標について、まともな発信をしておりませんでした。

執筆動機がそうだったこともありますが、当時の私は余命の提唱する手段を解説することに終始し、恥ずかしいことに本来の目的をスローガン程度にしか認識しておりませんでした。

そもそも私がなぜ余命ブログの解説や拡散に努めるのか。
余命ブログをサポートする前提として、自身の思い描く「日本再生」を、もっと明確に表明しておくべきだったのではないか。

日本再生とは、一体どういう状態のことを言うのか。
社会がどうなれば、日本が再生されたことになるのか。

 

「春不遠」を、日本再生の具体的なビジョンについても語り合える場にできていたなら…と、振り返ることがあります。

もし、「春不遠」が、余命解説と並行して日本再生にもフォーカスするブログだったならば…

 

もしかしたら、余命の活動について是々非々で議論することができたかも知れない。

余命から離れることなく、余命読者の中に、「《余命に違和感を感じたら即反日確定》に違和感を感じるクラスタ」が堂々と存在できたかも知れない。

さらに、手段は違えども目的を同じくする仲間として、いわゆる反余命的立場の方々と建設的な意見交換ができたかも知れない。

日本を愛する仲間たちと、「日本再生の一手段」としての「余命三年時事日記」を、大いに語り合ってみたかったです。

態度やふるまい方は、目標達成に大きく影響するものです。
以下、日本再生を目指す日本人の「あり方」について、一部の方にとっては気を悪くされる恐れのある内容の独白です。

 

余命ブログへの投稿や、自身のブログまたは他の余命サポートブログのコメント欄の論調に、気が滅入った時期がありました。

二言目には駆逐だ除鮮だ殲滅だと、扇情的に喚き散らす。
かつての自分を棚に上げ、お花畑とマジョリティを揶揄する。
下衆な替歌やパロディをもてはやして溜飲を下げる。
天皇陛下や英霊、自衛隊を賛美する一方、一定の国民の犠牲やむなしと、彼らの「守る対象」には敬意を払わない。

 

相容れない存在を口汚く罵る者が唱える「愛国」に、私は強く違和感を覚えます。
そして、それらの姿勢やふるまいに疑問を呈しようものなら売国奴認定という、狭量な二元論にも辟易するのです。

 

主張の対立を工作員の攻撃と見做すような、先鋭化する愛国心の行き着く先は、思考停止の国粋主義です。

戦後レジュームよりもタチの悪いものを現代日本に再生させてどうするのですか。

日本再生を願う心と、ネット保守界隈に見られる排他性や口汚さとは、なんの関係もありません。

改めて思います。
我々の何が奪われてしまったのか、と。

戦後レジュームからの脱却を標榜する者ならば、いの一番に取り戻すべきは、己の姿勢ではないでしょうか。

 

世に蔓延る在日反日を潰しさえすれば、自動的に「美しい日本」が出現するわけないのです。

思い描く「美しい日本」には、しっかりと自分自身が組み込まれているか。

そこに自分の居場所はあるのか。

自分自身も「美しい日本」の一部であることを自覚し、そこに責任を負ってはじめて、日本再生は始まるのではないでしょうか。

(以上、引用)

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